上野公園に西郷隆盛像がある理由

西郷隆盛造が上野公園にある理由

上野公園には多くの人が知っている西郷隆盛像がある。右手に犬を連れているあの有名な銅像である。

銅像は明治31年に作られた。頭の部分は高村光雲作。胴体部分は岡崎雪聲(せっせい)作である。実はこの銅像は合体させたものである。

しかし、なぜ薩摩(鹿児島)出身の西郷隆盛の銅像が上野公園にあるのか調査してみた。

上野公園と西郷隆盛の関係

上野公園は寛永寺の敷地だった。寛永寺は天海僧正が創建した。

鳥羽・伏見の戦いにやぶれた徳川慶喜は江戸最大の寺だった寛永寺に謹慎した。寛永寺は江戸幕府の象徴でもあった。その為、慶喜を慕う家臣などが寛永寺には出入りしていたのである。それが上野彰義隊といわれた。

1868年5月15日に上野彰義隊が新政府軍に刃を向けた。これを上野戦争という。戦場はなんと寛永寺境内となり、新政府軍が総攻撃を行ったのである。わずか半日で彰義隊は制圧された。このときの新政府軍の指揮官は西郷隆盛で、この戦いで最も激しく戦った場所が黒門口と呼ばれる場所で、現在の西郷隆盛像がある場所である。

銅像は新聞で寄付を募り、約25,000人の寄付金で建てられた。

上野公園の現在(寛永寺)

明治に入り、寛永寺の境内を公園とした。実はこれが日本初の公園のひとつである。明治政府は新しい東京のシンボルと位置付け上野恩賜公園(通称上野公園)となった。

上野戦争で境内は焼け野原となったが、境内の主戦場となりながら奇蹟的に残った寛永寺清水観音堂がある。ここに飾られている上野戦争の絵馬の隣には当時の大砲の弾が2つ飾られている。このお堂は京都の清水寺をまねて作られている。舞台があり、現在は飛び降りるのではなく、願い玉(5個で500円)を舞台下にある水晶の台にのれば願い事がかなうかもしれないとされている。

江戸時代の寛永寺根本中堂は現在の大噴水の場所にあったが、1698年上野戦争で消失している。現在の根本中堂は川越喜多院から移築されたものである。ちなみにお寺の本堂と言われるが、本堂とは根本中堂の略である。

内部に足を踏み入れると、黄金色に輝いており、徳川の家紋である三つ葉葵の御紋がところ狭しと飾られている。

一般の参拝客は外陣(げじん)といわれるエリアのみ入れる。外陣の内側が中陣(ちゅうじん)といわれ寛永寺の檀家や徳川家以外は特別に許可をもらった人のみ入れる。

根本中堂内には歴代の徳川将軍たちが拝んだとされる仏像がある。本尊の薬師如来像で秘仏とされ通常は拝めない。

伝説では、最澄が自ら彫ったという言い伝えがある。

通常は秘仏の身代わりとして御前立ちが安置されている。御前立ちの両側には十二神将が守っている。

十二神将の向かって左奥から毘羯羅(ひぎゃら)・招杜羅(しょうどら)・真達羅(しんだら)・摩虎羅(まこら)・波夷羅(はいら)・因達羅(いんだら)。向かって右奥から宮毘羅(くびら)・伐折羅(ばさら)・迷企羅(めいきら)・安底羅(あんちら)・頞儞羅(あじら)・珊底羅(さんちら)の配置となっている。

葵の間(慶喜謹慎の間)

根本中堂の裏側に、慶喜が謹慎生活をおくっていた「葵の間」がある。もちろん特別な時にしか入れない。床の間付き10畳と8畳の二間の広さ。当時慶喜が使っていたとされる黒色のトイレも残っている。

慶喜は30歳という若さで謹慎した為、趣味が写真と書道となった。特に書道は達人レベルとなり、現在の日本橋にある「日本橋」の文字は慶喜が書いた文字である。

寛永寺にある歴代将軍6人の墓所

通常は非公開エリアである。都心にありながら多くの緑に囲まれ特別な雰囲気がある。

4代将軍家綱・5代将軍綱吉・8代将軍吉宗・10代将軍家治・11代将軍家斉・13代将軍家定の墓がある。

実は独特の埋葬法があり、霊廟の約2メートル下に衣冠束帯という公家の最高級衣装を身に着け江戸城に向かって座っている。

西郷隆盛と同郷の天璋院篤姫の墓もここにある。十二単を身に着け正座し埋葬されている。

慶喜のお墓はどこ

慶喜のお墓は、寛永寺の近くにある谷中(やなか)霊園にある。中でも葵の御紋がついたフェンスに囲まれ向かって左に慶喜のお墓があり、その右側には正妻のみかこさんのお墓がある。神道式のお墓である。

慶喜も家臣から慕われた人物で、著名人では日本の資本主義の父と言われる明治の大実業家渋沢栄一は、一生をかけ慶喜を慕っていたとされている。渋沢栄一のお墓も谷中霊園にある。そのお墓は慶喜のお墓を向いている。

慶喜は大正2年に77歳で死去。江戸時代・明治時代・大正時代の3時代を生きた。

西郷隆盛の人柄

有名な言葉がある「敬天愛人」である。訳すと天を敬い人を愛す。天がみんなを愛するように自分も人を愛そうという意味だ。

西郷隆盛はとにかく人の話をよく聞いたとされる。年下の者が話をしても、時には涙を流しながら聞いてくれることもあったとのこと。

大久保利通をはじめ、多くの人に慕われた西郷隆盛の人柄はNHK大河ドラマの「西郷どん」や「翔ぶがごとく」などをみるとよく伝わってくる。

上野公園に西郷隆盛像がある理由まとめ

西郷隆盛は多くの人に人気があった。現在の上野でも人気が高かったため建てられた。

薩摩(現在の鹿児島県)という東京から遠く離れた地で、薩摩藩の家臣という決して高い官職では無かった人物が政治の中心人物となった事も人気の理由だと思われる。薩摩藩時代から多くの人に慕われたその背景には、島津斉彬公の影響を受け、世界を見据えた民主主義の信念が多くの民衆の心を惹き付けたのだろう。仲間を大切にし、慕ってくる人を助けようとする性格が、田原坂での最後となるが、命を懸けて多くの人の為に人生をささげたスケールの大きい人物であったことが窺がえる。

 

二条城の秘密

二条城の秘密に迫る

大政奉還で有名な二条城ご存じのとおり世界遺産である。

1603年に徳川家康が建てたものである。最も有名な大広間では大政奉還がなされたということで有名だ。

260年続いた徳川幕府の始まり(徳川家康が将軍になったお祝いの儀式を行った)の場所であり、終わりを告げる(徳川慶喜が大政奉還を宣言)した場所でもある。

※大政奉還とは、将軍が政権を朝廷に返上することである。政治的には最大級の出来事である。

大政奉還150周年という節目に観光客が200万人突破した。

徳川幕府の始まりと終わりのシンボルが二条城だ。歴史の重みと綺麗さで外国人の観光スポットとして人気があり、大政奉還150周年の節目には、姫路城(世界遺産)大幅に超える来場者となっている。

多くの観光客が連日集まるが、城内は敷地も広く、ゆったりと見る事が出きる。二の丸御殿内は、順番に並ぶ事になるが、厳かな雰囲気に包まれ順序良く進み、大きな渋滞はがおきる事はほぼない。ストレスを感じることなく楽しめる。

二条城の正門

 

正門にはおもしろい装飾がある。堀川通に面した東大手門が正門だ。正門の金飾りの右下に江戸時代からある不思議な千鳥の装飾が一カ所だけある。なぜその不思議な千鳥模様があるかはわかっていない。

東大手門は2階へ上がれる(普段は入れない)実は武器庫として使われた。石落としもある。1662年に4代家綱が改修する際に作った。安泰の時代にこれほどの用心が徳川幕府の強さを物語る。

正門を通り抜けると、そこからは砂利が敷き詰められている。城内は基本的に砂利の為、車椅子・ベビーカー等では進めないほどではないがやや苦労する。

二条城の唐門(カラモン)

東大手門を左に進むと唐門(カラモン)が目に飛び込んでくる。絢爛豪華な大きな門である。1626年に3代将軍家光が建立した。1回だけ後水尾天皇の行幸に合わせて建立された。二条城のシンボル的な門である。

実は同時期に建てられた日光東照宮の唐門とよく似ている門である。

門には彫刻があり青いアゲハ蝶が2匹ある。蝶は、卵→青虫→さなぎ谷→蝶へと生命が変化していく様が繁栄を象徴しているともいわれている。全体的には金色の装飾が多く光り輝いている。

二の丸御殿は国宝

唐門を通り砂利を歩いて進むと二の丸御殿はすぐそこにある。通常は撮影禁止区域となる。

靴を脱ぎ、玄関の階段を上がると早速ウグイス張りの廊下がある。実際に歩いたが、キュッキュッと確かに鳴る。

これは、だれが御殿内に入ってきても廊下が鳴り近づいてくる事がわかる仕組みで、非常に重要な話をする場だったことは言うまでもない。

ほどなく来訪者が控える場所があるがそこが遠侍(とおざむらい)と言われる。

遠侍は参上したものが控える間。狩野派の虎の描かれた絵襖が迫力がある。天井も豪華な装飾がある。3方向から虎ににらまれている感じがする。これから将軍に面会というタイミングではさぞかし緊張したのではないかと推測される。

そこからおよそ20m進むといよいよ大広間がある。将軍が座る間(一の間)は1段高くなっており、48畳の広さだ。二の間は44畳と将軍が座る間よりも狭い。よく見ると、実際は日本の教科書にでてくる絵とは広さが異なる。将軍の座(一の間)は奥行きが違い、二の間は横幅が異なる。(二の間の横面の襖の位置が異なる)

雰囲気は松の襖に囲まれた重厚感のある空間が広がる。

大広間には日本の教科書でよく見かける大政奉還の絵を再現するべく、人形が配置さている。一の間には将軍・小姓1名が設置されており、二の間には両端から中央部分に向いて4名の家臣と正面(将軍の方向)を向く家臣10名が配置されている。その人形を見ると実際はどうだったのかという想像力がさらにかきたてられる。

外国人に人気の二の丸庭園

外国人に人気の庭園が二の丸庭園だ。徳川家康が作った二の丸庭園である。二の丸御殿のすぐ横にあり、将軍の座から綺麗に見えるよう造られている。蓬莱山・鶴島・亀島を模して極楽浄土をイメージしているといわれている。

大政奉還の間から最も見える位置にあるこの庭は、大政奉還宣言後、慶喜将軍がどんな思いで庭を見ていたのか想像をかきたてられる。

慶喜公が城から去る時に最後に通った西門

城の西側にある西門は二条城の裏門にあたり通常は入れない。ガイドツアーのみ公開している。

1867年、慶喜が最後に西門から出ていったと言われる。徳川幕府が終わる最後の最後である。

正門と違い装飾はほとんどない。

明治維新後は静岡で暮らし、晩年は公爵となり東京で暮らした。慶喜公は77歳の長寿で大正時代まで生きた。

その後寛永寺にて永眠する。

寛永寺は上野にある。天台宗の展開さんが建てた。寛永寺の最盛期は現在の上野一帯が寛永寺の敷地だったともいわれている。その広さは、およそ東京ドーム21個分だ。慶喜公謹慎の間がある。天台宗の展開 広さは東京ドーム21個分と言われる。

 

 

 

 

大黒寺で西郷隆盛と大久保利通と密談していた

西郷隆盛と大久保利通が討幕の密談をしていた場所が現存する。それが大黒寺の「会談の間」である。

大政奉還3年前に近代日本の話がされていた。それが大黒寺本堂に隣接されている建物で会談の間である。

場所は〒612-8062 京都市伏見区鷹匠4

京阪電車の京都丹波橋駅からあるいて8分の場所で伏見区役所が近く区役所の北に位置する。お寺は大きな塔などの目印がないので、わかりにくい場合は伏見区役所で聞いてみてもよいかもしれない。

近鉄丹波橋駅からは徒歩で9分。

大黒寺の会談の間の雰囲気

室内は広さ8畳ほどで襖をはさんで6畳の間もある。8畳の部屋の中央には西郷隆盛が実際に使ったとされる木の机・筆・硯・煙草の盆が置いてある。実際に大久保利通などと密談した場所だ。隣の6畳は西郷隆盛が寝ていたと思われる部屋で、欄間にある龍の彫り物を西郷隆盛は気に入っていたとのこと。

西郷隆盛と大久保利通が密談した内容はハッキリわからないが、日本の行く末を左右する話がなされたことは容易に想像でき、ワクワクする。

坂本龍馬ともここで話をしたとも言われており、薩長同盟の話の可能性が高い。

机などは触れることも可能だが、写真撮影は禁止。

寺田屋で命を落とした人たちのお墓

大黒寺には墓地があり、伏見寺田屋殉難九烈士之墓と石柱にかかれている。

寺田屋事件で命を落とした人の墓である。薩摩藩士のお墓で西郷隆盛が事件から2年後に作った。

九烈士は以下の人物

死者は・有馬新七・柴山愛次郎・西田直五郎・橋口壮介・橋口伝蔵・弟子丸龍介

切腹は・田中謙助・森山新五左衛門・山本四朗

 

三十三間堂の秘密

三十三間堂は蓮華王院というお寺の本堂の通称である。2018年春に新たに1001体の千手観音立像が国宝となった。

※本堂・木造千手観音坐像・風神像・雷神像・木造二十八部衆立像は既に国宝。

長さが約120mで日本一長い木造の宗教建築と言われている。観音様を拝見しながら歩くと5分はかかると言われる。

誰が建立したのか

1164年後白河法皇の命により平清盛が建立したお寺である。のちに豊臣秀吉により現在の南大門も作られた。この南大門は坂本龍馬とお龍が初めてであったともいわれている。

本堂の中はどのような感じか

堂内の明るさは、まぶしいという事は無く、やや薄暗い感じである。

最初に目に飛び込んでくるのは右端に配置してある日本最古の風神像だ。そこから千体千手観音立像が縦は10列で横は50列の500体の観音様が並んでいる。そしてちょうど中間に中尊といわれる高さ3mで金が施された千手観音座像がお目見えする。こらも国宝である。中尊は鎌倉時代に有名だった運慶の息子である仏師の湛慶(たんけい)が寄木造で4年歳月をかけ作成した。湛慶はこの時82歳。

そしてもう半分がまた縦10列で横50列の500体の千体千手観音立像が並び、その端には右端の対として日本最古の雷神像が見守っている。この約1000体の観音像が金で覆われているのだからお坊さんでも言葉を失うというのもうなずける。

全ての仏像は1032体で国宝。

いつ拝むことが出来るのか

基本的にたどり着けばいつでも拝むことが出来る。

なぜ多くの観音像が集められたのか

数が多いほど信仰が深いとされていた。数が多いので功徳を積めると考えられている。

仏像は同じ表情なのか

全て異なる。細かくいうと、1249年にお堂が消失しており、その火災を逃れた124体の観音様を創建仏といわれ、その後、鎌倉時代に876体の観音様が再興され再興仏と言われている。鎌倉時代に再興された時は、奈良や京都の仏師が腕を競ったと言われている。

仏像を彫刻する際には儀軌と言われる仏像の姿や持ち物が記載された書物があり、基本は決まっているが、儀軌に書かれていない所は仏師の個性を出してもよい所となる。表情は儀軌に記載されていない部分にあたる。その為、観音像は表情や口元、眉等が仏師の気持ちで彫刻されている。さらに錫杖(しゃくじょう)や首飾り、衣などが各観音像で異なる。量産技術がない時代であるから一緒にすることは困難だとも推測される。1000体の中に必ず会いたい人の顔があるという言い伝えもある。

なぜ千手といわれ手が多いのか

千手観音像は実は1000本の手は無い。実は右に20本左に20本の合計40本である。1本の手で25の世界を救うとされ25×40=1000という事で1000の救いがあるという意味である。

40本の手はなにを持っている(中尊)

頭の上には11の顔がある。これは人間の持つ11の悩みに向き合ってくれという事を示している。額の中央部にある丸い点は白毫(びゃくごう)といわれ東方18000の世界に光を照らすという意味がある。40本の手には様々な道具を持っており、あらゆる手をつかって人間を救うという意味がある。宝剣や宝鏡等あるが、その道具の中でも気になるものが髑髏だ。髑髏は普段見えないもの、気づかないものにもご利益があるという意味がある。

ニ十八部衆

婆藪仙人・阿修羅王・金色孔雀王・大弁功徳天・那羅延堅固・緊那羅王・乾闥婆王・大梵天金毘羅王金大王沙羯羅竜王満善車王毘楼博叉天毘楼勒叉天東方天神母天五部浄居天・毘沙門天・迦楼羅王・難陀竜王摩和羅女畢婆迦羅王摩醯首羅王・帝釈天・散脂大将密迹金剛摩睺羅王満仙王

観音像の最前列に位置する二十八部衆は二十八体揃う事が自体が日本全国でも大変珍しい事である。

中尊の真裏の千手観音像

唯一反対を向いている観音像がある。おおむね東方向を向いている中で西を向いた観音像である。

西側を守る目的でそのような配置となっている。お賽銭箱もあるので、その観音像にも参拝をすることで全ての三十三間堂をお参りしたことになり、充分に徳をいただけることになるだろう。